甘いひとり暮らしをあきらめても華麗な恋愛遍歴をした末に結婚した友人が、言った。「ちょっと、結婚っていいじゃないのよう。私、もう二度と、ひとりで生活する気になんかならないわよ」私は驚いた。彼女は、雑誌の編集者としてバリバリ働き、複数の恋人を持ち、その中のひとりを選んで週末を過ごしてきた人なのだ。私から見ると、まさに「甘い生活」の暮らしだ。そんな彼女のことだもの、刺激の少ない結婚生活にうんざりしているんじゃないかしらと密かに心配していたのである。ところが、どうも違うようだ。華やかで奔放な暮らしをあきらめても、結婚生活を手に入れてよかったと思っているらしい。必ず受けとめてくれる存在があるということ「この間、私、実家の母が死んだじゃない。あんときなんか、旦那がいてくれなかったら、今頃、私、気が狂っちゃってたんじゃないかって、マジで思うの」そう話す彼女の目元には、もう涙がにじんでいる。彼女は母ひとり子ひとりで育った人だ。親戚づきあいもほとんどなく、きょうだいもなく、お母さんが唯一の肉親であったわけだ。それだけに、2人は密接な関係で結ばれていた。当然、お母さまの死は自分の一部がなくなるのと同じくらいの苦しみだったろう。私は「旦那さまがやさしい方でよかったね。私にも覚えがあるけど、母親をなくすってつらいよね。なぐさめてくれる人がいなかったら、耐えられないよね」と、答えたのだが、どうもそれは的外れな反応だったようだ。「あら、やだ。うちの旦那、やさしくなんかないわよ。なぐさめてもくんなかったわよ。でもね、とにかく私、旦那に当たり散らしたわけよ。だって、ほかに当たる人いないんだもの。恥ずかしいんだけど、私さあ、母親が臨終のときむちゃくちゃ取り乱したのよ。なんてったって、お医者さんに『ちょっと、あなた、少し静かにしてくれませんか』つて叱られたくらい、すごかったのよ。旦那も焦ったんでしょうね。私を羽交い締めにして、病室の外へ引きずり出したいの。私、あんまり腹がたったから、彼のこと、思い切りボカスカぶん殴ってやったわ。そしたら、向こうも怒って、私の足を払ったりするわけよ。そんなこんなで、もうプロレスしているみたいになってさ、夫婦で廊下でくんずほぐれつ、つかみ合いの喧嘩しているうちに、うちの母、死んじゃったのよ」彼女は一気にそう話したあと、しんみりとこう言った。「でもさあ、ヒステリー起こしている私に、本気で向かってきてくれる人なんて、旦那しかいないもん。私、恥も外聞もないって状態だったから、『ママが癌になったの、あんたのせいよ。なんとかしてよ。死なせないでよ。何もできないなんて、この無能男。馬鹿。ボケナス。あんたなんか死んじゃえ』なんて、めちゃくちゃ言ったのよ。そんな私から逃げ出しもしないで、『痛てえ。あっ、そこぶつな。急所はやめろ。ほかのとこにしろ』なんて言いながらもさ、ぶたれるがままになっててくれるの、旦那しかいないもん。そうじゃない?」「うん」「私さ、○○がいち早く結婚したとき、就職もしないで結婚しちゃうなんて堕落だって、言ったでしょ。なんかもったいないような気がしてさ。仕事も恋も、もっとたくさんのことができるのにって思って。ごめんね。でもさ、自分も結婚してみるとさ、結婚してよかったって思えるんだ」。私は「うん」としか答えなかったが、心の中はさまざまな言葉でいっぱいになっていた。夫はこうして私を立ち直らせてくれたもちろん、結婚した人のすべてが、彼女のように本音をぶつけているわけではないだろう。正直言って、私は彼女ほど夫にむき出しの感情を出してはいないような気がする。お互い、どこかに遠慮がある。実家の母が死んだときも、本当は彼女のようにキイキイ言いたかった。わめきたかった。誰かれかまわずぶん殴りたかった。が、できなかった。とくに夫には、夫にだけはそんなことはできないと思った。彼は見かけによらず、神経の細い人なので、取り乱した私を重荷と感じてまいってしまうに違いないからだ。何事も当事者の事情というものがある。しかし、その代わりに、私は母が死んでからの1年をぼんやりと過ごした。恥ずかしい話なのだが、自分が何をしていたのかほとんど記憶がない。手帳を開けば、人との約束や原稿の締め切りがメモしてあるし、地方へ講演に行くために乗った電車の座席ナンバーが記してもある。けれども、私には自分がそういうことをしていたという実感がまったくない。ヒステリーは起こさなかったし、泣きわめいたりもしなかっだけれど、私はぼんやりしたまま、毎日をなかったことにして生きていたような気がする。こんな女がそばにいるのは、悪夢のような状態だろう。しかし、夫は何も言わなかった。私がそんな状態でいたと気づいていたかどうかもよくわからない。母の一周忌がすんだ頃、思い切って夫に尋ねてみると、彼は意外なことを教えてくれた。「夫婦はさ、お互いの気持ちなんてそれほど思いやらないものなんだよ。そりゃあ、○○がお母さんのことで悲しんでいたのはわかっていたよ。でも、はっきり言って、俺にはどうでもいいことだったんだ。もちろん『俺も同じように悲しかった』と言うのは簡単だけどさ。でも、そんなこと言えないね。嘘になるもの。結局、夫婦っていったって、ほうっておくしかない。○○には悪いけど、俺は人の気持ちを細かく思いやる余裕なんてないんだ。自分のことで精一杯なんだよ」私はこの答えを聞いたとき、わが夫を初めて見る人のような気持ちで眺めてしまった。正直に本当のことを話してくれたことには深く感謝したが、「へえっ、びっくり」と思ったのも確かである。しかし、それでも、もし結婚していなかったら、私はまだぼんやりしたまま、毎日をなかったことにして生きていたような気がする。つまり、夫はどっぶりと感情に浸る私を、ほうっておくことによって、結果的には立ち直らせてくれたのである。
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